2008年11月07日

書について・日本美術とその将来(5)

書について・日本美術とその将来(5)



 私は絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をか

く。恐らく私の書く書の量は古往今来日本一といってもよかろう。お

守にする光の書は一時間に五百枚をかく。また額や掛軸にする二字な

いし四文字の書は三十分間に百枚は書く、余りに早いため三人の男で

手捌(さば)きをするが、仲々追つき得ない。トント流れ作業であ

る。

 書道について私は以前ある有名な書家に習いたいと申入れた。それ

は略字に困る事があるからで、それを知りたいためと言ったところ、

その書家が言うには、

「先生などは書を習う事はやめになった方がよい。なぜならば習った

書は一つの型に嵌(はま)ってしまうから個性がない。字が死んでし

まう。形だけは美しいが内容がない、自分などはその型を今一生懸命

破ろうとして苦心しているくらいだから、先生などは自由に個性を発

揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが多か

ろうが一向差支えない」と言うので、私はなる程と思い習う事はやめ

てしまったのである。

 絵画美術工芸なども、古人の方が優れている事は定説となってい

るが、書に至っても同様で、私は古筆などを観る毎に感歎するのであ

る。特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似も出来ない

巧さである。もっともその時代の人は生活苦や社会的煩わしい事など

ないから、悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽し

んでいたためもあろう。現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手と

しては、尾上柴舟(さいしゅう)氏くらいであろう。古人で私の好き

なのはまず道風、貫之、定家、西行、光悦等であるが、特に光悦の一

種独特の文字は垂涎(すいぜん)措く能わざるものがある。また俳人

芭蕉の文字もなかなか捨て難い点があり、しかも芭蕉の絵に至っては

専門家と比べても遜色はあるまい。これによってみても一芸に秀ずる

人は他のものも同一レベルに達している事が判るのである。

 漢字では王義之(おうぎし)、空海等はいうまでもないが、近代と

しては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。何といっても

漢字は文字の技巧よりも人物の如何にあるので、やはり大人物の書は

形は下手でも、どこか犯し難い品位がある。これについて霊的解釈を

してみよう。書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、

朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、そこに書

というものの貴さがあるのであるから、書はどうしても大人物、大人

格者のものでなくては価値がないのである。妊娠中の婦人が胎教のた

め、偉人の書を見るのを可としているが、右の理由によるのである。


 ここで、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であ

るといってもいい。それは書が大いなる働きをするからで、この説明

はあまり神秘なためいずれ他の著書で説くつもりであるが、ここでは

ただ書道を随談的にかいたのである。
posted by 亭 at 11:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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