【日記の最新記事】
2008年12月03日
観音様は最高の神仏
観音様は最高の神仏 観音様は一番御位が高い。八百万の神仏中一番高い御位です
2008年11月07日
書について・日本美術とその将来(5)
書について・日本美術とその将来(5)
私は絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をか
く。恐らく私の書く書の量は古往今来日本一といってもよかろう。お
守にする光の書は一時間に五百枚をかく。また額や掛軸にする二字な
いし四文字の書は三十分間に百枚は書く、余りに早いため三人の男で
手捌(さば)きをするが、仲々追つき得ない。トント流れ作業であ
る。
書道について私は以前ある有名な書家に習いたいと申入れた。それ
は略字に困る事があるからで、それを知りたいためと言ったところ、
その書家が言うには、
「先生などは書を習う事はやめになった方がよい。なぜならば習った
書は一つの型に嵌(はま)ってしまうから個性がない。字が死んでし
まう。形だけは美しいが内容がない、自分などはその型を今一生懸命
破ろうとして苦心しているくらいだから、先生などは自由に個性を発
揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが多か
ろうが一向差支えない」と言うので、私はなる程と思い習う事はやめ
てしまったのである。
絵画や美術工芸なども、古人の方が優れている事は定説となってい
るが、書に至っても同様で、私は古筆などを観る毎に感歎するのであ
る。特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似も出来ない
巧さである。もっともその時代の人は生活苦や社会的煩わしい事など
ないから、悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽し
んでいたためもあろう。現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手と
しては、尾上柴舟(さいしゅう)氏くらいであろう。古人で私の好き
なのはまず道風、貫之、定家、西行、光悦等であるが、特に光悦の一
種独特の文字は垂涎(すいぜん)措く能わざるものがある。また俳人
芭蕉の文字もなかなか捨て難い点があり、しかも芭蕉の絵に至っては
専門家と比べても遜色はあるまい。これによってみても一芸に秀ずる
人は他のものも同一レベルに達している事が判るのである。
漢字では王義之(おうぎし)、空海等はいうまでもないが、近代と
しては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。何といっても
漢字は文字の技巧よりも人物の如何にあるので、やはり大人物の書は
形は下手でも、どこか犯し難い品位がある。これについて霊的解釈を
してみよう。書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、
朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、そこに書
というものの貴さがあるのであるから、書はどうしても大人物、大人
格者のものでなくては価値がないのである。妊娠中の婦人が胎教のた
め、偉人の書を見るのを可としているが、右の理由によるのである。
ここで、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であ
るといってもいい。それは書が大いなる働きをするからで、この説明
はあまり神秘なためいずれ他の著書で説くつもりであるが、ここでは
ただ書道を随談的にかいたのである。
私は絵と共に書も好きである。御存知の通り毎日数百枚の書をか
く。恐らく私の書く書の量は古往今来日本一といってもよかろう。お
守にする光の書は一時間に五百枚をかく。また額や掛軸にする二字な
いし四文字の書は三十分間に百枚は書く、余りに早いため三人の男で
手捌(さば)きをするが、仲々追つき得ない。トント流れ作業であ
る。
書道について私は以前ある有名な書家に習いたいと申入れた。それ
は略字に困る事があるからで、それを知りたいためと言ったところ、
その書家が言うには、
「先生などは書を習う事はやめになった方がよい。なぜならば習った
書は一つの型に嵌(はま)ってしまうから個性がない。字が死んでし
まう。形だけは美しいが内容がない、自分などはその型を今一生懸命
破ろうとして苦心しているくらいだから、先生などは自由に個性を発
揮される方がよい。字を略す場合など、棒が一本足りなかろうが多か
ろうが一向差支えない」と言うので、私はなる程と思い習う事はやめ
てしまったのである。
絵画や美術工芸なども、古人の方が優れている事は定説となってい
るが、書に至っても同様で、私は古筆などを観る毎に感歎するのであ
る。特に私が好きなのは仮名がきで、現代人には到底真似も出来ない
巧さである。もっともその時代の人は生活苦や社会的煩わしい事など
ないから、悠々閑日月の間に絶えず歌など物したり書いたりして楽し
んでいたためもあろう。現代人で古人と遜色のない仮名がきの名手と
しては、尾上柴舟(さいしゅう)氏くらいであろう。古人で私の好き
なのはまず道風、貫之、定家、西行、光悦等であるが、特に光悦の一
種独特の文字は垂涎(すいぜん)措く能わざるものがある。また俳人
芭蕉の文字もなかなか捨て難い点があり、しかも芭蕉の絵に至っては
専門家と比べても遜色はあるまい。これによってみても一芸に秀ずる
人は他のものも同一レベルに達している事が判るのである。
漢字では王義之(おうぎし)、空海等はいうまでもないが、近代と
しては山陽、海屋、隆盛、鉄舟等も相当のものである。何といっても
漢字は文字の技巧よりも人物の如何にあるので、やはり大人物の書は
形は下手でも、どこか犯し難い品位がある。これについて霊的解釈を
してみよう。書にはその人の人格が霊的に印写されるのであるから、
朝夕その書を観る事によってその人格の感化を受けるので、そこに書
というものの貴さがあるのであるから、書はどうしても大人物、大人
格者のものでなくては価値がないのである。妊娠中の婦人が胎教のた
め、偉人の書を見るのを可としているが、右の理由によるのである。
ここで、私の事を書いてみるが、私の救の業としての重点は書であ
るといってもいい。それは書が大いなる働きをするからで、この説明
はあまり神秘なためいずれ他の著書で説くつもりであるが、ここでは
ただ書道を随談的にかいたのである。
書に就て
書に就て
いつも独得な観察と、軽快な文章をもって、本紙を賑わしている江
川君が今度書と宗教についてという感想文をかいたのを見て、私もそ
れに刺戟され思いついたままをかいてみよう。
元来、書とは昔からよく言われている通り、その人の人格を筆によ
って表現するものであるから、偉人や高僧智識等のかいたものを尊し
とされている、面白い事には茶道と書とは、切っても切れない関係の
ある事で、それについて私は以前、利休の茶会記事を読んだ事がある
が、それによると利休は墨蹟(ぼくせき)を好み、茶会の時はいつも
床へ掛けていたという事で、偶(たま)には画もあるが、それは牧谿
(もっけい)に限られていたそうである、墨蹟は無論、支那(シナ)
の宋から元にかけての高僧の書いたもので、中には日本へ帰化してか
ら書いた人もあり、日本の禅僧の書も尊ばられている、まず有名なの
は、大徳寺の開山(かいさん)、大燈(だいとう)国師をはじめ、円
覚寺の開山、無学(むがく)禅師やその他夢窓(むそう)国師、支那
およびその帰化僧としての圜悟(えんご)、無準(ぶじゅん)、宗園
(そうえん)、茂古林(むくりん)、清拙(せいせつ)、虚堂(きど
う)、兀庵(ごったん)、大慧(だいえ)、g楚石(きそせき)、自
如(じじょ)、恩断江(おんだんこう)等があるが中にも私の好きな
のは大燈と無準と宗園である、そうして以上のような墨蹟をみている
と、巧みな字はもちろんだが、巧みでない字でも眺めていると、何か
しら犯すべからざる一種の高邁さに打たれるのである、全くその人の
人格から滲み出る高さであろう。
次にこれは別の意味においての、大徳寺代々の禅師の書で、これも
仲々捨て難いものがある、特に一休の書に到っては、実に稚拙(ちせ
つ)ではあるが、いささかも形に囚われない、上手(じょうず)にか
こうなどという臭味などいささかもなく、実に天真爛漫よく一休の天
衣無縫(てんいむほう)的性格が表われている、面白い事には一休の
贋物が随分あるが、反って字が巧すぎるから判るくらいだ、また沢庵
の書も仲々いいがこれは相当巧みな字で、しかも覇気があり、悟りを
開いたという衒(てら)いなどのないところに、禅師の風格が偲ばれ
る、その他清巌(せいがん)、江月(こうげつ)、玉室(ぎょくし
つ)等にも見るべきものがあるが、武人としては楠正成の字も非常に
巧いと思うが、秀吉と家康の字も相当なものである、この間私は某所
で空海の書をみたが、仲々柔味のある好い字であるが、世間でいう程
ではないと思った、近代に至っては山岡鉄舟の書も面白い、彼の自由
奔放なる書体は高く評価してよかろう、巌谷一六(いわやいちろく)
の書も捨て難いものがあるが、何と言っても良寛であろう、彼の脱俗
的な軽妙な書体は、見て微笑(ほほえま)しいくらいである、それか
ら書家としての貫名海屋(ぬきなかいおく)の字も達筆である、私は
いつか海屋のかいた六曲の屏風を見たが、一曲一行文字で実に見事な
書風で感心させられた。
次に古筆の方面を少しかいてみるが、私が最も好きなのは紀貫之
(きのつらゆき)である、もちろん万葉仮名であるが、実に何ともい
えない気品と旨味があり、頭が下るくらいである、次で道風、西行も
いい、私はこの三人の文字が一番好きだ、その他としては行成(ゆき
なり)、定家(さだいえ)、佐理(すけまさ)、良経(よしつね)、
俊成(としなり)、公任(きんとう)、俊頼(としより)、宗尊(む
ねたか)親王等それぞれいいところがある、女性としては小大君(こ
だいのきみ)、紫式部もいい、今生きている人の中では尾上柴舟(お
のえさいしゅう)氏の字もいいが、氏の歌も私は好きである、まずこ
のくらいにして筆を擱(お)く事とする。
いつも独得な観察と、軽快な文章をもって、本紙を賑わしている江
川君が今度書と宗教についてという感想文をかいたのを見て、私もそ
れに刺戟され思いついたままをかいてみよう。
元来、書とは昔からよく言われている通り、その人の人格を筆によ
って表現するものであるから、偉人や高僧智識等のかいたものを尊し
とされている、面白い事には茶道と書とは、切っても切れない関係の
ある事で、それについて私は以前、利休の茶会記事を読んだ事がある
が、それによると利休は墨蹟(ぼくせき)を好み、茶会の時はいつも
床へ掛けていたという事で、偶(たま)には画もあるが、それは牧谿
(もっけい)に限られていたそうである、墨蹟は無論、支那(シナ)
の宋から元にかけての高僧の書いたもので、中には日本へ帰化してか
ら書いた人もあり、日本の禅僧の書も尊ばられている、まず有名なの
は、大徳寺の開山(かいさん)、大燈(だいとう)国師をはじめ、円
覚寺の開山、無学(むがく)禅師やその他夢窓(むそう)国師、支那
およびその帰化僧としての圜悟(えんご)、無準(ぶじゅん)、宗園
(そうえん)、茂古林(むくりん)、清拙(せいせつ)、虚堂(きど
う)、兀庵(ごったん)、大慧(だいえ)、g楚石(きそせき)、自
如(じじょ)、恩断江(おんだんこう)等があるが中にも私の好きな
のは大燈と無準と宗園である、そうして以上のような墨蹟をみている
と、巧みな字はもちろんだが、巧みでない字でも眺めていると、何か
しら犯すべからざる一種の高邁さに打たれるのである、全くその人の
人格から滲み出る高さであろう。
次にこれは別の意味においての、大徳寺代々の禅師の書で、これも
仲々捨て難いものがある、特に一休の書に到っては、実に稚拙(ちせ
つ)ではあるが、いささかも形に囚われない、上手(じょうず)にか
こうなどという臭味などいささかもなく、実に天真爛漫よく一休の天
衣無縫(てんいむほう)的性格が表われている、面白い事には一休の
贋物が随分あるが、反って字が巧すぎるから判るくらいだ、また沢庵
の書も仲々いいがこれは相当巧みな字で、しかも覇気があり、悟りを
開いたという衒(てら)いなどのないところに、禅師の風格が偲ばれ
る、その他清巌(せいがん)、江月(こうげつ)、玉室(ぎょくし
つ)等にも見るべきものがあるが、武人としては楠正成の字も非常に
巧いと思うが、秀吉と家康の字も相当なものである、この間私は某所
で空海の書をみたが、仲々柔味のある好い字であるが、世間でいう程
ではないと思った、近代に至っては山岡鉄舟の書も面白い、彼の自由
奔放なる書体は高く評価してよかろう、巌谷一六(いわやいちろく)
の書も捨て難いものがあるが、何と言っても良寛であろう、彼の脱俗
的な軽妙な書体は、見て微笑(ほほえま)しいくらいである、それか
ら書家としての貫名海屋(ぬきなかいおく)の字も達筆である、私は
いつか海屋のかいた六曲の屏風を見たが、一曲一行文字で実に見事な
書風で感心させられた。
次に古筆の方面を少しかいてみるが、私が最も好きなのは紀貫之
(きのつらゆき)である、もちろん万葉仮名であるが、実に何ともい
えない気品と旨味があり、頭が下るくらいである、次で道風、西行も
いい、私はこの三人の文字が一番好きだ、その他としては行成(ゆき
なり)、定家(さだいえ)、佐理(すけまさ)、良経(よしつね)、
俊成(としなり)、公任(きんとう)、俊頼(としより)、宗尊(む
ねたか)親王等それぞれいいところがある、女性としては小大君(こ
だいのきみ)、紫式部もいい、今生きている人の中では尾上柴舟(お
のえさいしゅう)氏の字もいいが、氏の歌も私は好きである、まずこ
のくらいにして筆を擱(お)く事とする。
タグ:書に就て
奈良美術行脚
奈良美術行脚
今度私は、日本仏教美術調査研究のため、奈良地方へ赴き、著名な
寺院を次々観て廻り、大いに得るところがあったから、今その感想を
いささか書いてみよう。何しろ今から千二、三百年以前、推古(すい
こ)、飛鳥(あすか)、白鳳(はくほう)、天平(てんぴょう)時代
から、弘仁、藤原等の時代に至るまでの作品であるが、観る物ことご
とくと言いたい程、素晴しいものばかりなので、面喰ったくらいだ。
よくもこんな古い時代に、今日の美術家でも到底出来まいと思う程の
物が沢山あるので、驚くの外なかったのである。その中で何といって
も法隆寺の品物であろう。何しろ数多くの金銅仏や、木彫、乾漆、塑
像(そぞう)等はもちろん、厨子(ずし)や仏器に至るまで、他の寺院に
あるそれらのものを断然切り離しているといってもいい程の優秀な物
ばかりなのである。特に有名な百済(くだら)観音などは、いつ観て
も頭の下る思いがする。また最近出来上ったという例の壁画は、まだ
一般には観せるところまではいっていないようだが、以前私は観た事
があるので想像は出来ると共に、今飾ってある写真だけを観ても、偲
(しの)ばれるのである。
なお、右、法隆寺のほか、私の最も感嘆に堪えなかったのは、彼の
薬師寺の本尊仏であろう。これは幾千万言費すよりも、実物を観た方
がいい、実に言語に絶する神技である。恐らく現代のどんな名人で
も、到底この何分の一も難しいであろう。その他各寺にある物ことご
とくと言いたい程名作ばかりであるから一々は略すとして、今さらな
がら木彫における日本の地位は、世界一といっても過言ではなかろ
う。今回私が廻って見た寺は、東大寺、薬師寺、法華寺、法隆寺、奈
良博物館と、少し離れた宇治平等院の鳳凰堂、石山寺等であったが、
右の鳳凰堂にある仏体は、藤原期の代表作で立派なものであった。そ
こで私が思った事は、このように数ある古代仏教芸術を一堂に集め
て、日本人にも外国人にも手軽に観られるようにしたら、どんなにか
歓ぶであろうし、益するところ大きいかを想像してみた事である。そ
れと共に日本人がいかに古代から文化的に卓越せる民族であるかが充
分認識されるであろう。その意味において私はいずれ京都に一大美術
館を建て、それを如実に現したいと今から期待しているのである。
以上は今回の紀行をザットかいたのであるが、このほかに鎌倉時代
の仏教彫刻についても一言いいたい事は、何しろ奈良朝以後暫く落着
き状態であった仏教彫刻は、この頃に至って俄然盛り返し、絢爛たる
様相を呈したのである。もちろん巨匠名人続出し、彼の運慶と快慶等
もこの時の名人であった。そうして奈良時代のそれと異うところは、
ほとんど木彫ばかりで、特に彩色が大いに進歩すると共に、模様に切
金(きりかね)を使い始めた事で、これが大いに流行し、その作品は
今も相当残っているが、その巧みな技術は感嘆に価するものがある。
よくもこの時代にこのような巧緻(こうち)な物が出来たものかと、
私は常に感嘆している。この切金模様の極致ともいうべき名作が箱根
美術館に出陳されるから、観れば誰しも驚くであろう。
これで大体、今度の仏教美術の見聞記は終ったが、元来日本の彫刻
は仏教に関する以外の名作は余りなかったようである。ただ有名なの
は左甚五郎であるが、この人に関する興味ある伝説も随分あるが、そ
の作品に至っては一般人の目に触れる物はほとんどないといってい
い。ただあるのは日光東照宮の眠りの猫くらいのものであろう。だが
私はここに推賞したい一人がある。それは今生きている人で、佐藤
玄々という彫刻家である。この人は初めは朝山、次は清蔵といい、
玄々は三度目の名であるが、その点珍しい人である。この人は今年確
か八十三か四と思うが、古来稀にみる名人と思っている。私はこの人
の作品を好み傑作品と思う数点を美術館に出すつもりだから、観たら
分るであろう。
今度私は、日本仏教美術調査研究のため、奈良地方へ赴き、著名な
寺院を次々観て廻り、大いに得るところがあったから、今その感想を
いささか書いてみよう。何しろ今から千二、三百年以前、推古(すい
こ)、飛鳥(あすか)、白鳳(はくほう)、天平(てんぴょう)時代
から、弘仁、藤原等の時代に至るまでの作品であるが、観る物ことご
とくと言いたい程、素晴しいものばかりなので、面喰ったくらいだ。
よくもこんな古い時代に、今日の美術家でも到底出来まいと思う程の
物が沢山あるので、驚くの外なかったのである。その中で何といって
も法隆寺の品物であろう。何しろ数多くの金銅仏や、木彫、乾漆、塑
像(そぞう)等はもちろん、厨子(ずし)や仏器に至るまで、他の寺院に
あるそれらのものを断然切り離しているといってもいい程の優秀な物
ばかりなのである。特に有名な百済(くだら)観音などは、いつ観て
も頭の下る思いがする。また最近出来上ったという例の壁画は、まだ
一般には観せるところまではいっていないようだが、以前私は観た事
があるので想像は出来ると共に、今飾ってある写真だけを観ても、偲
(しの)ばれるのである。
なお、右、法隆寺のほか、私の最も感嘆に堪えなかったのは、彼の
薬師寺の本尊仏であろう。これは幾千万言費すよりも、実物を観た方
がいい、実に言語に絶する神技である。恐らく現代のどんな名人で
も、到底この何分の一も難しいであろう。その他各寺にある物ことご
とくと言いたい程名作ばかりであるから一々は略すとして、今さらな
がら木彫における日本の地位は、世界一といっても過言ではなかろ
う。今回私が廻って見た寺は、東大寺、薬師寺、法華寺、法隆寺、奈
良博物館と、少し離れた宇治平等院の鳳凰堂、石山寺等であったが、
右の鳳凰堂にある仏体は、藤原期の代表作で立派なものであった。そ
こで私が思った事は、このように数ある古代仏教芸術を一堂に集め
て、日本人にも外国人にも手軽に観られるようにしたら、どんなにか
歓ぶであろうし、益するところ大きいかを想像してみた事である。そ
れと共に日本人がいかに古代から文化的に卓越せる民族であるかが充
分認識されるであろう。その意味において私はいずれ京都に一大美術
館を建て、それを如実に現したいと今から期待しているのである。
以上は今回の紀行をザットかいたのであるが、このほかに鎌倉時代
の仏教彫刻についても一言いいたい事は、何しろ奈良朝以後暫く落着
き状態であった仏教彫刻は、この頃に至って俄然盛り返し、絢爛たる
様相を呈したのである。もちろん巨匠名人続出し、彼の運慶と快慶等
もこの時の名人であった。そうして奈良時代のそれと異うところは、
ほとんど木彫ばかりで、特に彩色が大いに進歩すると共に、模様に切
金(きりかね)を使い始めた事で、これが大いに流行し、その作品は
今も相当残っているが、その巧みな技術は感嘆に価するものがある。
よくもこの時代にこのような巧緻(こうち)な物が出来たものかと、
私は常に感嘆している。この切金模様の極致ともいうべき名作が箱根
美術館に出陳されるから、観れば誰しも驚くであろう。
これで大体、今度の仏教美術の見聞記は終ったが、元来日本の彫刻
は仏教に関する以外の名作は余りなかったようである。ただ有名なの
は左甚五郎であるが、この人に関する興味ある伝説も随分あるが、そ
の作品に至っては一般人の目に触れる物はほとんどないといってい
い。ただあるのは日光東照宮の眠りの猫くらいのものであろう。だが
私はここに推賞したい一人がある。それは今生きている人で、佐藤
玄々という彫刻家である。この人は初めは朝山、次は清蔵といい、
玄々は三度目の名であるが、その点珍しい人である。この人は今年確
か八十三か四と思うが、古来稀にみる名人と思っている。私はこの人
の作品を好み傑作品と思う数点を美術館に出すつもりだから、観たら
分るであろう。
東洋美術雑観(4)
日本美術はこのくらいにしておいて、次は支那美術であるが、支那
美術といえば、何といっても陶磁器であろうし、次は銅器、絵画とい
う順序であるから、まず陶磁器を主としてかいてみるが、支那美術と
しては一番陶磁器が古いらしく、今から四千年前既に相当なものが出
来ている。その中で今日残っているものにアンダーソンというのがあ
る。これはアンダーソンという学者が発見したもので、その名がある
という事だが幸いにもこの陶器の大壷が手に入り、本館へ出してある
からみれば分るが、そのような古い時代に、こんな好いものが出来た
というのは、到底信じられない程である。そうして支那陶器が真に発
達し始めたのは、まず六朝(りくちょう)時代から唐へかけてであろ
う。特に唐時代には彩色物の優秀品が出来た、それが彼の唐三彩で、
形状、技術、色の配合など特色があり仲々見事なものがあるが、それ
とは別に緑釉物といって青緑色のものがあり、これも好もしいもので
本館にはダンダラ筒形香炉がある。次に生まれたのが彼の越州窯であ
る。これは茶がかった薄鼠色でボリュームに富み、技巧も割合よく、
この初期に出来た鶏頭壷けいとうこ)大壷が、本館第五室の入口にあ
り、この品はすべての点において、世界に二つとない絶品とされてい
る。次に出来たのが汝窯(じょよう)であるが、これは青味がかった
錆(さび)色で、平肉彫(ひらにくぼり)の技巧また捨て難く、その
徳利形花生が本館に出ているが、これは汝窯の代表作と云われてい
る。この汝窯が進化したのが青磁であって、支那陶器といえばまず青
磁に指を屈するが、全く初期末時代のものはその色といい技術とい
い、その素晴しさは驚くべきものである。
今から八、九百年前によくもこれだけの工芸美術が出来たものと、
感に堪えないので全く一種の謎といえよう。しかしながら青磁にはそ
の種類が頗(すこぶ)る多岐で、本当に見分け得る人は恐らくないと
されている。私もその方面の学者、専門家によく鑑定させた事があっ
たが、人により意見区々(まちまち)で決定版は不可能であるにみ
て、いかに難しいかが分るであろう。
しかし大体としては修内司窯(しゅうないじよう)、郊壇窯(こう
だんよう)、砧(きぬた)、天竜寺、七官(しちかん)、竜泉窯(り
ゅうせんよう)等であるが、その中で修内司窯、郊壇窯、砧が最高と
されている。また断定困難な場合は官窯青磁とされるようだが、本館
にもこれら一級品が数点あって、特に砧青磁袴腰大香炉のごときは衆
目の見るところ世界一との評である。青磁はこのくらいにしておい
て、次は宋均窯(そうきんよう)であるが、これは日本では数は少な
いが伝世物(でんせいもの)が多く、非常に好もしいもので、青磁と
はまた別な味がある。しかし均窯物は大英博物館の、ホップレス氏の
蒐集品は数も質も優れているようである。だが本館にある大皿は、世
界にも類がない程の絶品とされている。その外宋時代の優秀品に定窯
(ていよう)がある。これは白定窯と黒定窯とがあって、黒の方は極
く稀で、白定窯は皿類がほとんどで、立体的のものは極く稀である。
しかし本館第三部にある徳利は、まず世界的といってもよかろう。今
一つ同部にある水指も珍しいもので、日本では二、三点あるのみであ
る。次に宋時代の逸品としては鉅鹿(きょろく、別名掻落し)である
が、これも数は少ないが日本には世界最高品がある。彼の有名な白鶴
美術館の竜文大壷と細川護立氏所蔵の花文大壷であり、本館には蝶牡
丹文の壷がある。またこの時代の物に陰青(いんちん、青白磁)とい
って、青磁に似た磁器があるが、これも仲々捨て難いもので、本館に
ある蓮華彫中皿は、日本での最高のものとされている。
右は宋を中心とし、元にかけてのものの大体をかいたのであるが、
次の明時代に入って俄然として一大飛躍をした。それはちょうど日本
の平安朝から鎌倉時代にかけての、美術興隆が宋元時代とすれば、足
利から桃山にかけてのそれが明時代と言ってよかろう。この時代の支
那陶器は宋元物とは全然趣を異にしたもので、宋元の素朴淡白にし
て、貴族的典雅な陶風に対し明の作風は華麗、豪華、大衆的になって
来た。また宋の作風が青磁、均窯、汝窯、定窯のごとき単色で形状や
彫を主にした作柄に対し、明のそれは形も巧妙になったと共に、染付
や赤絵のごとき装飾画や模様的のものがほとんどで華麗眼を驚かす物
が続々生まれたのである。金襴手、呉須(ごす)赤絵、宣徳、万暦
(ばんれき)赤絵等がそれであって大いに珍重されているが、特に嘉
靖の金襴手は最高のもので、本館にある金襴手瓢形(ひさごがた)花
瓶と、小型角形の盛盞瓶(せんさんびん)などは優秀稀に見るもので
ある。その後の近代物であるが天啓、康煕(こうき)、雍正(ようせ
い)、乾隆(けんりゅう)等の好い物も出来たが、明以前の物に較べ
ると技巧に因われすぎて、軽薄感が深く、魅力の淡いのは衆目の見る
ところである。
次に陶器の外に世界的に珍重されている支那美術は銅器であろう。
これは今から約三千年以前殷(いん)、商(しょう)、周時代の作品
であるが、その技術の優秀なるは実に奇蹟である。そんな古い時代に
かくも立派な物が出来たという事はどうしても考えられない程であ
る。しかも一層不思議に思う事は、その後に至って泰(しん)、漢、
隋、唐、宋というように、時代の下るに従って技術は段々低下した事
であるから、美術のみは文化の進歩に逆行している訳で、この不思議
は誰もが一致した意見である。そうして支那銅器類は、米英の博物
館、美術館に多く集っており、日本では白鶴美術館、住友美術館、根
津美術館くらいが主なるものであろう。
次に絵画であるが、支那絵画は何といっても、陶器と同様宋元時代
が最も好いものが出来ている。この時代の作品は、他の時代のものを
断然切離している程傑出している。なかんずく墨絵における牧谿(も
っけい)、梁楷、顔輝、馬遠等は特に優れており、牧谿、梁楷、馬遠
の名品は本館にあるから観たであろうが、この時代の名画はほとんど
神技に近いといってよく、筆力雄渾なる、こればかりは日本画家の追
随を許さぬところである。そうして彩色画では何といっても世界一の
名人とされている徽宗(きそう)皇帝であろう。次で銭舜挙(せんし
ゅんきょ)も名手とされているが特に徽宗皇帝の日本における逸品は
井上候所持の桃鳩(ももはと)であろう。また大原美術館にある銭舜
挙の桓野王(かんやおう)も名品である。
面白い事には、この時代の名人の中には、一種類の絵を一生涯描い
た人が多かった。その中で有名なのは日観(にっかん)の葡萄、因陀
羅(いんだら)の仏者、李安忠の鶉(うずら)、范安仁(はんあんじ
ん)の魚、徐煕(じょき)の鷺(さぎ)、檀芝瑞(だんしずい)の竹
等である。
(注)
アンダーソン(JohanGunnarAndersson、1874〜1960)スウェーデンの地質学者。考古学者。中国で調査中、北京原人の出土地周口店洞窟遺跡を発見。また、新石器時代の彩色陶器を検出し、オリエント文化とのつながりを指摘した。
呉須赤絵(ごすあかえ)中国明末清初の時代、中国南部の地方窯でつくられた赤絵のこと。赤・青・緑に黒の線描きが加えられているのが特徴。日本へ渡来し、茶陶としての用途に重宝された。
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東洋美術雑観(3)
ところがこれより先、平安朝時代の和歌さかんな時和歌の雅びな仮
名書に感化を受けて生まれたものが彼の大和絵であろう。この手法は
もちろん支那の彩色画から出たのであるが、この派の巨匠としては有
名な藤原信実(のぶざね)である。この人の色紙が今日一枚百万以上
もするにみて、その優れている事は想像出来るであろう。また別に鳥
羽僧正をはじめ覚鑁(かくばん)等の戯画(ぎが)も生まれたがこれ
は漫画の初めと言えよう。そうして大和絵の進歩は藤原期から鎌倉期
に続いて、多く神仏関係の縁起物を題材とした絵巻物が多く、今日そ
の頃の絵巻物の好いものとなると非常に珍重され価格も驚く程であ
る。今私が欲しいと思っているある絵巻物は、三巻で六百万円という
のであるから、手が出せないでただ指を喰えているのみである。絵巻
物は特に米人が愛好し、逸品を虎視耽々と狙っているそうである。本
館にある天平(てんぴょう)因果経の巻物は千二百年前出来たもので
これは日本画としては最古のものであるにかかわらず、その色彩の鮮
やかなるにみて、その絵具の優良なる今日でも解らないとされてい
る。
また大和絵から転化したものに土佐派がある。その中での巨匠とし
ては光起(みつおき)、又兵衛(勝以、かつもち)等であり、次で菱
川師宜(もろのぶ)出で、ここに浮世絵を創めたのである。その後歌
麿、春信、長春等の名匠相次いで出で、近代に到ったのは人のよく知
るところである。
そうして日本画として驚くべき物は彼の仏画であろう。もっとも支
那宋時代の仏画からヒントを得たのであろうが、日本はまた日本独特
のものを描いた。むしろ支那よりも優っているくらいである。本館に
も数は少ないが、審美的に観て価値あるものを出した積りであるが、
仏画にあり勝ちな窶(やつ)れや汚点が少ないから、見る眼に快い美
しさがあろう。ここでちょっと書き漏らせないのは、足利末期におけ
る数人の画家である。海北友松(かいほくゆうしょう)、長谷川等
伯、狩野(かのう)山楽等であるが、本館にある友松の屏風は、友松
中の逸品とされている。狩野派において元信、尚信、常信、雪村(せ
っそん)、探幽(たんゆう)等幾多の名人は出たが最後の雅邦までで
人気は一頃と違って来た。もちろん時代の変遷が唯一の原因であろ
う。絵画はこのくらいにしておいて、書について若干かいてみるがま
ず日本人の書としては何といっても仮名書であろう。その中でも最も
優れているのは平安朝時代の人達で、貫之(つらゆき)、道風(みち
かぜ)、西行(さいぎょう)、定家(ていか)、佐理(すけまさ)
卿、宗尊(むねたか)親王、俊頼(としより)、良経、源順(みなも
とのしたごう)、行成(ゆきなり)等、女性としては紫式部、小大
(こだい)の君(きみ)等であるが、これら古筆(こひつ)物は日本
独特の優美さがありその高雅な匂いは他の追随を許さぬものがある。
次に墨蹟(ぼくせき)であるが、日本ではまず弘法大師を筆頭とし、
大徳寺の開祖大燈国師を始め、同系の一休、沢庵、清巌(せいが
ん)、江月(こうげつ)、玉室、古溪(こけい)等が主なるもので、
その他としては鎌倉円覚寺の開祖無学禅師、別派として夢想国師等で
あろう。また近代の人で人気のあるのは良寛であり、名筆としては貫
名海屋(ぬきなかいおく)辺りであろうかと思う。書は大体このくら
いにしておいて、次は日本陶器に移るとしよう。
日本陶器も絵画と同様支那から伝わったものに違いないが、そのほ
とんどは支那の影響を受けている赤絵物、染付物、青磁物等もそれで
あって、彼の柿右衛門、伊万里、九谷なども人の知るところである
が、ただ鍋島の皿は意匠といい、色彩といい、日本独特のものであろ
う。その他異色ある物としては薩摩と万古(ばんこ)くらいのもの
で、右とは別に朝鮮物からヒントを得て、鎌倉時代に作り始めた尾張
物がある。これはほとんど茶碗であって茶人は大いに珍重し愛好され
ている。従って価格の高い事も驚く程で、種類と言えば古瀬戸、黄瀬
戸、志野、唐津、織部等であるが、これらは尾張物と称し錆物(さび
もの)とも云われている。右の外の錆物では備前及び信楽焼があるが
もちろん茶器類が多く、仲々捨て難い味がある。そうして茶碗につい
て見逃す事の出来ないのは、彼の楽焼の祖長次郎の作品であろう。こ
の人はもちろん朝鮮陶器からヒントを得て、楽焼という日本独特のも
のを案出したので、千の利休に可愛がられて名器を数多作ったのであ
る。その後三代目ノンコー(道入)、四代目一入、五代目宗入が有名
である。従って長次郎は日本陶芸家の名人として永遠に残るであろ
う。
ここで日本陶芸家として支那にも劣らない名人の事をかかねばなら
ないがそれは何といっても仁清(にんせい)と乾山(けんざん)の二
人であろう。まず仁清からかいてみるが、この人は徳川初期の京都の
人で、本名は野々村清兵衛(清右衛門)といったが、仁和寺(にんな
じ)村に住んでいたので、通称仁清といったが、そのまま有名になっ
たのである。この人の特に優れた点は、あらゆる日本陶器が支那また
は朝鮮をお手本としたのに、この人ばかりは異って独創的である。そ
の意匠、模様、形、色等、日本的感覚を実によく表わしている。しか
も優美にして品位の高い事は、到底支那陶器も及ばない程で全く日本
の誇りである。これを見る時私はいつも、日本陶芸家としての光琳で
あろうと思う。
次は乾山であるが、乾山は周知のごとく光琳の弟であって、この人
も多芸で絵画においても素晴しい手腕をもっており、陶芸もそれに伴
っているから珍しいと思う。この人は仁清とはまた違った味を持って
おり、どちらかといえば仁清が大宮人(おおみやびと)とすればこれ
は野人(やじん)的である。もちろん絵にしても光琳、宗達のような
巧緻(こうち)な点はないが、言うにはいわれぬ稚拙的趣(おもむ
き)がある。私はこう思っている。この二大名人によって日本陶器
も、支那陶器と対照としても、あえて遜色はないとさえ思っている。
次に仏教美術についても少しかいてみるが、これも絵画は唐時代、
彫刻は六朝(りくちょう)時代支那から伝えられたものであって、推
古時代から伝ったもので、今から約千三百年前である。もちろん仏教
美術は絵画彫刻共、歩調を揃えて発達して来たと言いたいが、この発
達の言葉に疑念があるというのは古い時代のもの程反って優れている
からである。なるほど技巧の点は鎌倉時代辺りが最も発達したが、絵
画でも彫刻でも藤原時代の方が優っており、また藤原時代よりも奈良
朝時代の方が優っているのだから、全く不思議である。彫刻の最初は
金銅仏、乾漆物〔仏〕がほとんどで、漸次木彫に遷ったのである。そ
うして有名な法隆寺の百済(くだら)観音、薬師寺の本尊薬師如来、
法華寺の十一面観音等に至っては、言語に絶する名作である。従って
仏画は別としても仏像の彫刻は世界最高の水準といえるであろう。実
に日本が誇るべきものの一つとして世界的芸術品であろう。
東洋美術雑観(2)
それらとは別に、桃山時代彼の有名な本阿弥(ほんあみ)光悦とい
う不世出な工芸作家が生まれた。彼の美に対する天才は、行くところ
可ならざるなき独創的のものでその中でも蒔絵、楽焼、書、余り多く
はないが絵などもそうで、その斬新な意匠、取材等は、時人をして感
嘆させたのは言うまでもない。この光悦の影響を受けて生まれたもの
が彼の宗達であった。この人はそれまでの各流派の伝統を見事に打破
し、今日見るがごとき素晴しい絵画芸術を作ったのであるから、全く
日本画壇にとっての大恩人であろう。その後百年以上経てから彼の光
琳が出現したのである。光琳は宗達の画風に私淑(ししゅく)し、そ
れを一層完璧にしたものであるから、言わば光琳の生みの母である。
ここで光琳について一言差し挿む必要がある。それは今日喧(やか
ま)しく言われているマチス、ピカソ等にしても、その本源は光琳か
ら出ている。そうして彼光琳が世界的に認められたのは、十九世紀の
半ば頃と思うが、光琳を最初に発見したのはフランスの一画家であっ
た。この画家が初めて光琳の絵を見るや、俄然驚異の眼を瞠(みは)
ったのである。というのはそれまでヨーロッパにおいては、長い歳月
続いて来た彼のルネッサンス的美の様式が極度に発達し、なかんずく
絵画に至っては写実主義の頂点に及び、行詰りの極どうにもならなか
った。何しろその時の人々は写真に着色した方がいいとさえ言ったく
らいだから察せられるであろう。そこへ青天の霹靂(へきれき)のご
とく現れたのが光琳であった。光琳の画風たるや微に入り細にわたっ
たそれまでの手法とは反対に、極めて大胆に一切を省略してしかもそ
の物自体を写実以上に表現する素晴しさを見たフランス画壇は、救世
主出現のごとく歓喜したのはもちろんで、たちまちにして百八十度の
転換となり、それから生まれたものが彼の前後期印象派である。それ
を起点として幾変遷を経てついに現在のごとき画風にまで到達したの
であるから、光琳の業績たるや表現の言葉もない偉大なものであろ
う。当時フランス出版界に明星とされた書に、著者の名は忘れたが題
は、『世界を動かせる光琳』というのがあった。全く死後再数十年を
経てから、全世界を動かしたのであるから、光琳こそ英国におけるシ
ェークスピヤに比して、優るとも劣らないと私は思っている。何とな
れば光琳の事績は独り画壇ばかりではなく、あらゆる社会面にわたっ
て一大革命を起したからである。それは最初生まれたのが彼のアール
ヌーボー様式で、漸次世界の意匠界を革命してしまった。それはあら
ゆる美の単純化である。特に著しい変化を与えたのは建築である。そ
の真先に現れたのが彼のセセッションであって、これが幾変遷してつ
いに今日世界の建築界を風靡した彼のル・コルビュジエ式となったの
である。
右のごとく世界のあらゆる建築も、家具も調度、衣裳、商業美術
等々、そのことごとくはルネッサンス様式を昔の夢と化してしまった
事である。以上光琳の業績についてザットかいたのであるが、私はこ
う思っている。日本人で文化的に世界を動かした第一人者としては、
光琳を措いて他にないであろう。彼こそ日本が生んだ世界的金字塔で
なくて何であろう。また現在の日本画壇にしてもそうだ。それまで狩
野派、四条派、南宗派などの旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)的画風
であったのを、一挙に革命してしまった者も光琳である。これについ
てこういう話がある。それは今から三十数年前、彼の岡倉天心先生に
私は直接面会した時の事である。先生いわく「僕は今度美術院を作っ
たが、その意とするところは、光琳を現代に生かすにある」との決意
を示された。これにみても現在の日本画は光琳が土台となって、それ
に洋画を加味したものである。余り長くなるから、光琳の話はこれく
らいにしておき、次に移る事としよう。
ここで日本画の歴史を大略かいてみるが、そもそも日本画は支那か
ら伝来したものであるのは周知の通りである。そうして東洋画として
の発祥地は、絵画史によると支那のチベット寄りにある敦煌(とんこ
う)というところで、ここは千数百年以前は最も文化の発達した都市
で、大谷光瑞(こうずい)氏はこの辺を最も好んだとみえ、長く滞在
して随分調査探求したもので、その記録を私は見た事がある。それに
付随した沢山の写真も見たが、建築、風俗等、その頃としてはすこぶ
る進歩していた事が窺われる。そうして時代は唐であって、それから
五代頃から進歩し始め、北宋に到って東洋画としての形式が一応完成
され、名人巨匠続出したのである。今日珍重されている宋元名画はそ
の頃の作品である。面白い事にはその当時の有名な画家のほとんど
は、禅僧であった事である。彼の墨絵の巨匠たる牧谿(もっけい)、
梁楷(りょうかい)も禅僧であり、この二大名人のものは、本館に出
ているから観たであろう。
以上のごとく、初め支那に生まれた絵画が、日本へ輸入されたのが
足利期からである。もっともその以前奈良朝時代にも少しは入ったよ
うだが、右のごとく宋元時代の名画を知ったのが彼の足利義満、義政
であったので、今日日本にある宋元名画のほとんどは、足利氏の手を
経たもので、特に優秀なものは東山御物(ひがしやまぎょぶつ)とし
て特殊の判が捺してあるから直ぐ分る。そうしてそれら名画を扱った
役目をしていたのが彼の相阿弥である。もちろん芸阿弥、能阿弥もそ
れに携ったらしいが、その影響を受けて生まれたのが彼の東山水墨画
である。
また当時支那に行って学んだ画家としては、啓書記(けいしょ
き)、周文(しゅうぶん)、蛇足(だそく)等で、少し後れたのが雪
舟であるらしい、一説には雪舟は帰化人であるとも云われている。し
かし右の人々こそ日本画の祖であった事は間違いない。従って狩野派
の祖は雪舟であるといってもよかろう。
東洋美術雑観(1)
今まで美術に関する批評といえば、ほとんど学者の手になったもの
ばかりでそれはなるほど究明的で深くもあるが、一般人にとっては必
要がないと思う点も少なくないので、私などは終りまで読むに堪えな
い事がよくある。そこで一般的に見て興味もあり、一通りの鑑賞眼を
得られればいいという程度にかいたつもりであるから、これから美術
の門に入ろうとする人の参考になるとしたら幸いである。
美術について、まず日本と外国との現状からかいてみるが、外国と
いっても今日美術館らしい施設をもっている国は、何といっても米英
の二国くらいであるから、この二国の現在をかいてみよう。それはど
ちらも東洋美術に主力を注いでいる点は一致しているが、東洋美術と
いっても、ほとんどは支那美術で、陶磁器を中心に銅器と近代絵画と
いう順序である。そうしてまず英国であるが、この国での蒐集(しゅ
うしゅう)家としては、世界的有名なユーモー・ホップレスとデイビ
ットの二氏であろう。ホップレス氏の蒐集品は余程以前から大英博物
館を飾っており、その量も仲々多かったが、第一次大戦後経済上の関
係からでもあろうが、惜しいかな相当手放したのである。もちろん大
部分は米国へ行ったが、不思議にも少数のものが日本にも来て、今も
某氏の所有となっている。こんな訳で若干減るには減ったが、今でも
相当あるようである。
次のデイビット氏は、まだ美術館は開いていないそうだが、ホップ
レス氏の方は唐、宋時代からの古いものが多いに対し、デイビット氏
の方は明以後の近代物が多いようである。そうしてホップレス氏の方
は周の前後から漢、宋辺りまでの優秀銅器が相当あり、また絵画も多
数あるにはあるが、宋元時代の物は僅かで、明以後康煕(こうき)、
乾隆(けんりゅう)辺りのものがそのほとんどである。デイビット氏
の方は銅器も絵画も図録に載っていないところをみると、余りないの
であろう。しかし英国では個人で相当持っている人もあって、その中
で珍しいと思ったのは、某婦人で日本の仁清(にんせい)を愛好し、
若干もっているとの事である。そんな訳で同国には日本美術は余りな
いのは事実で、それに引換え米国の方は、さすが富の国だけあって、
立派な美術館も数多くあるし、品物も豊富に揃っている。まず有名な
のはワシントン、ボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサ
ンジェルス等の大都会を始め、各都市に大なり小なりあるのである。
その中で小さいが特に際立っているのは、フリヤ〔ア〕ーギャラリー
という個人の美術館で、これは世界的に有名である。ここは銅器の素
晴しい物があって、私は図録で見た事がある。しかし何といっても同
国ではボストンの美術館で、日本美術が特に多いとされている。何し
ろ明治時代岡倉天心氏が同館の顧問となって相当良い物を集めたし、
後には富田幸次郎氏がまた日本美術の優秀品を買入れたのであるから
推して知るべきである。私は数年前ワシントン美術館にある屏風類の
写真を色々見た事がある。光琳、宗達のものが多かったが、いずれも
写真で分る程の贋物ばかりなのには唖然としたのである。そんな訳で
日本古美術として海外に在るものは、思ったよりも少なく、ただ版画
だけがむしろ日本にある物よりも優秀で、数も多いとされており、特
に版画で有名なのはボストン美術館である。その他としてはフラン
ス、ドイツも若干あるが、ただ写楽物だけはドイツに多いとされてい
る。ではなぜ版画が外国に多いかという事について、私はこう思って
いる。それは彼らが明治以後日本へ来た時、まず目に着いたのが版画
であって、値も安く手が出しいいので、土産(みやげ)として持って
帰ったのが、今日のごとき地位を得た原因であろう。ところが私はど
うも版画は余り好かないので、以前から肉筆物だけを集めたから割合
安く良い物が手に入ったのである。というのは版画は外人に愛好され
たため、真似好きな日本人は版画を珍重し、肉筆物の方を閑却したか
らである。しかも最初外人が来た頃の日本人は、肉筆物を大切に蔵
(しま)い込んでいたので、外人の眼に触れなかったからでもあろう
が、この点もっけの幸いとなった訳である。
次に我国独特の美術としては、何といっても蒔絵であろう。これも
肉筆浮世絵と同様、外人の眼に触れる機会がなかったため手に入らず
終いになったので、存外海外にはないらしい。以下蒔絵について少し
説明してみるが、この技術はもちろん、古い時代支那の描金(びょう
きん)からヒントを得て工夫したものであろうが、日本では奈良朝時
代すでに相当なものが出来ている。今日残っている天平時代の経筥
(きょうばこ)のごときは、立派な研出(とぎだし)蒔絵であるから
驚くの外はない。その後平安朝頃から段々進んで、鎌倉期に至っては
画期的に優良品が出来たので、今でも当時の名作が相当残っており、
吾々の眼を楽しませている。次で桃山期から徳川期に入るや、益々技
術の向上を見、しかも大名道具として蒔絵は最も好適なので、各大名
競って良い物を作らした。今日金色(こんじき)燦然(さんぜん)た
る高(たか)蒔絵のごときは、ほとんど徳川最盛期に出来たもので、
品種は書棚、料紙(りょうし)文庫硯筥(すずりばこ)、文台(ぶん
だい)硯筥、手筥、香(こう)道具等が主なるものである。
タグ:東洋美術雑観
陶器・日本美術とその将来(4)
陶器についてもかいてみるが、元来陶器も絵画と同様支那から学ん
だものであるから、最初の日本陶器はほとんど支那の模倣であった。
古い所では黄瀬戸、青織部、青磁、染付、有田、平戸等で、美術的陶
器としては彼の柿右衛門が始めたもので、次いで稀世の陶工仁清(に
んせい)が京都に表われ、更に九谷焼が生まれ、一方京都では粟田、
清水等の色絵も出来、仁清風が伝わって伊勢の万古赤絵となり、次い
で薩摩焼の錦手等が制作される事になった。
また室町時代およそ四百年前、尾張、瀬戸に生れたのが古瀬戸とい
い、古くは千二百年前奈良朝頃から自然灰を上釉とした青磁風の陶器
が出来、日本青磁も江戸中期から出来たが到底支那青磁に比すべくも
ない。
柿右衛門は慶長頃の名工で、近世色絵、錦手等の新機軸を出したの
でその功績は斯界(しかい)の大恩人であろう。その後元禄時代六代
柿右衛門は、渋右衛門の優〔釉〕によって優秀な製品を出し有名とな
った。
特に私の好きなのは肥前の大河内焼で一名鍋島焼といい、享保年代
初めて作られたもので、皿類が多く、その意匠の抜群なる色絵染付の
技術とあいまって垂涎措く能わざるものがある。次に俗に伊万里焼と
いう錦手ものも捨て難いところがある。また薩摩焼の巧緻にして、絢
爛(けんらん)たる色絵も可なるものがある。しかし以上の三者共、
近代のものは意匠、技術共見るべきものなく何といっても二百年以前
の物に限るといってもいい。
ただ百五十年前に生れた錦手風の九谷焼は見るべきものがある。特
に吉田屋の青九谷や色絵物に優秀なるものがある。
私は最後に語るべきものに彼の京焼の祖である、名人仁清がある。
彼は仁和寺村の清兵衛〔清右衛門〕が本名で陶工としてはまず日本に
おける第一人者といってもいい、彼の作品に至ってはその多種多様な
る形状模様の行くとして可ならざるなき作風は天稟(てんびん)であ
ろう。しかもその高雅典麗にして他の陶器をきり離している。特に抹
茶碗、壺等には国宝級のものも相当あり、画界における光琳ともいえ
よう。彼の偉なる点は日本陶器はほとんど支那を範としたに拘らず、
彼のみはいささかもそれがなく、日本独特のものを作っている。もっ
とも彼の鍋島焼も同様日本独特のもので、この点二者同様の線に添う
ており、支那以上のものも多く出している。また乾山も稚拙な点もあ
るが、趣味横溢したものもある。光琳の弟であるため、光琳との合作
もある。
また備前焼にもなかなか良いものがある。おもに花生、置物等で、
古備前、青備前等優品が多く、推奨に足るものがある。また祥瑞(し
ょんずい)も私の好きなものである。その他京焼物の種類も多いが、
名だたるものとしては初代木米(もくべい)くらいであろう。
陶器を語るに当っては茶器も語らなければなるまい。茶器としては
まず茶碗であろう。特に朝鮮ものが最も珍重される。最高のものとし
ては井戸であろう。井戸の中(うち)喜左衛門、加賀、本阿弥等は有
名である。これらは今日といえども価格数百金というのであるから驚
くべきである。次いで魚屋(ととや)、柿の蔕(へた)、粉引(こひ
き)、蕎麦(そば)等は朝鮮物として珍重されている。純日本物とし
ては古瀬戸、志野、唐津、長次郎、のんこう、光悦、仁清、織部、
萩、信楽、伊賀等であろう。特に長次郎は楽の元祖で、利休の寵を受
けた名工で、今日まで十三代続いている。
次に新しい所を少し書いてみるが、明治以後今日まで特筆すべき名
人はいまだ出ないようだ。おもなる名工として初代宮川香山、清水六
兵衛、板谷波山、富本憲吉くらいであろう。
支那の陶器としてはまず青磁で、青磁にも砧、天龍寺、七官(しち
かん)の三種ある。その他交趾(こうち)、万暦赤絵、呉須等があ
る。朝鮮物は白高麗くらいであろう。
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美術の社会化
美術の社会化私は今度美術館を造ったについての、根本的意義をかいてみるが、
それはいつもいう通り、本教の目標は真善美完き世界を作るにあるの
で、その中の美を表徴すべく、天然の美と人工の美をマッチさせた、
いまだ誰も試みた事のない芸術品を造ったのである。そうしてその狙
いどころとしては、今日まで外国は別とし、日本という国が世界のど
この国にも劣らない程の、立派な美術品を数多くもちながら、これま
では特権階級の手に握られ、邸内奥深く秘蔵されていて解放する事な
く、時々限られた人にだけしか観せないような有様なので、早く言え
ば美術の独占であり、これが今までの日本人の封建的考え方であった
のである。
この事について私は以前から、まことに遺憾に思っており、何とか
してこの悪風を打破し美術の社会化を図りたいと思っていた。つまり
美術の解放であり、一般民衆を楽しませる事である。そうしてこそ芸
術の生命を活かすゆえんでもあると思い心掛けていたところ、私が宗
教家なるがゆえに、信徒の献身的努力と相まって、割合短期間に完成
したのであるから、私の長年の希望が達成した訳で喜びに堪えないの
である。そうして今日各地に個人美術館はあるにはあるが、それを造
った意図は、私の目的とはおよそ異(ちが)っている。それは富豪や
財閥が金に飽かして、自分の趣味の満足と財産保護、名誉欲等のため
蒐めた数多い美術品を、将来の維持と安全のため法人組織にしたもの
であって、それには一カ年何日以上は、公衆に展観させなければなら
ないという法規によって、春秋二季の短期間申訳的に開催するのであ
るから、社会的意味ははなはだ乏しいと云わねばならない。それに引
換え本美術館は、箱根の気候の関係から十二、一、二の三カ月間だけ
は休館するが、後は常設であるから、いつでも観たい時には見られる
という便宜があり、この点からいっても理想的であろうし、しかも本
美術館の列品は、美術に関心を持つ人達が一度でもいいから是非観た
いと思うような珍什名器が所狭きまで並べてあるのだから、その人達
の満足も大きなものがあろう。また料金も割合低額のつもりであるか
ら、社会福祉の上にも相当貢献出来ると思っている。
そればかりか、現代の美術家で参考品を観たいと思っても、御承知
の通り博物館は歴史的考古学的の物が多く、仏教美術が主となってい
るし、その他の個人美術館にしても支那美術、西洋美術が主であるか
ら、真の意味における日本美術館はなかったのである。しかもとかく
散逸し勝ちな貴重な文化財保存の上からいっても、大いに貢献出来る
であろう。先日も国立博物館長浅野氏や文化財保護委員会総務部長藤
川氏等が、参観されての話によるも、こういう美術館は現在国家が最
も要求している条件に叶っているので、吾々も大いに賛意を表し、援
助する考えだから、そのつもりで充分骨折って貰いたいとの事なの
で、私も大いに意を強うした次第である。
最後に特に言いたい事は、将来観光外客も続々日本へ来るであろう
し、箱根へ立寄らない外人はあるまいから、本美術館も必ず観覧する
に違いあるまいから、この点からも日本文化の地位を高める上に、少
なからず役立つ事であろう。それについて彼の有名なウォーナー博士
を始め、有力な外人の参観申込も続々あるので、いずれは海外に知れ
渡り、日本名物の一つとなる日も左程遠くはあるまいと思っている。
そこでそれに応ずべく、目下すべての充実に大童になっている次第で
ある。


